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僕は碇シンジだった

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を見てきた。

映画館には同じようにエヴァを観に来た小学生がいた。上映前には映画館のロビーに友達同士で集まって、どういう展開になるのか話し合っていた。

かつては僕もそうだった。初めてエヴァンゲリオンを知ったのは確か小学六年生の時で…友達を伴って、映画館まで皆で新劇場版:破を観に行ったのを覚えている。たまたま今回観に行ったのがその時と同じ映画館と同じスクリーンだったため、不意に懐かしさを感じた。

12歳の僕にとって、シンジはちょっぴり年上だったが、ちょうど背伸びがしたくなる年ごろゆえ、スクリーンに映るシンジへ自分を投影して楽しんでいたと思う。すべてを理解はできていなかったと思うが、シンジとともに使徒に寄生された参号機に脅え、綾波使徒から救出し快哉を上げたのは間違いない。

中学生になっても僕はエヴァンゲリオンを見ていた。破を見た後感銘を受けた僕は、TV版のビデオを買って嘗め回すように見た。旧劇場版の突き放したような終わり方に困惑もしたが、あの破滅的な展開で心がざわつく感覚がたまらなく好きだった。ちょうどその頃、中学校生活に馴染めず不登校になり、よりシンジの抱く戦いへの恐怖や、他人への恐怖に共感するようにもなっていた。そして、もちろんQも映画館に観に行った。

EoEをリアルタイムで見ることができなかったものだから、Q公開当初の混乱した評判は、まるでその当時を追体験してるようで心地が良かった。実際に観に行ったら言われているほどひどくは感じなかった、とは前にも書いたが、僕がなぜQを受け入れられたか、と言えばそれもシンジに強く自己を投影していたからだろう。

実際には作中同様に14年の年月が経ったわけではないが、それでも僕には破とQの間はとっても長く感じられた。思春期の3年は、それ相応の重みがあったと思う。さて、長い時間をおいて物語の続きを見てみれば、シンジは皆に拒絶され、挙句前作でやった事はすべて裏目に出て… これに違和感を感じなかったわけではないが、作中シンジが残酷な運命に翻弄される姿が、三年越しの新作に困惑する自分とよく同調して、やはり自分の事のように楽しめたのだろう。

結局、僕は主人公、碇シンジに感情移入することでエヴァを楽しんでいたのだと思う。それはシンエヴァでも同様だった。

コロナウイルス感染症や、それとは関係なく僕がダメだったせいもあって…最近の僕は塞ぎこんでいた。八年経ってまだシンジと同じ気分だ、感情移入しているんだと言ってのけるのは厚かましくはあるが、シンエヴァ本編でシンジが旧友たちに再会してもうつむいたままだったのは、まるで自分を見ているような気がした。

あるいは、僕はエヴァに破滅的かつ悲観的なストーリーを求めていたものだから、第三村でシンジとアヤナミがまるでセラピーのように、人間性を取り戻していく作業が受け入れられなかったのかもしれない。とにかく僕は、スクリーンの向こうのシンジと同じく、檄を飛ばすアスカや、手を差し伸べるトウジ、ケンスケから心を閉ざした。

奇妙なもので、僕は旧劇場版の壮絶な運命を課せられるシンジには非常に感情移入できた一方で、シンエヴァの、世界が半ば滅んでもなお、優しい世界が待っていることが受け入れがたかったのだ。

シンジは「なんでそんなに皆優しいんだ」と言っていたと思うが、僕もシンエヴァの展開をそう感じていたのだった。

それでも、アヤナミレイの成長や、アスカの叱咤を経て、シンジはいつしか第三村の人々と打ち解け、自らも仕事の手伝いをするようになった。そして、アヤナミレイとの離別を経て、ついにはヴンダーに再び乗る決断をするまでに至った。

ここから僕は碇シンジではなくなった。

僕だったら、13号機から引きずり出された後、誰かに心を開くことができただろうか。

僕だったら、自分が壊した世界に生き残った人たちの顔を見て話すことはできただろうか。

僕だったら、目の前で少女が消滅して、それでも前に進む決断をできただろうか。

できない。

それでも、碇シンジは心を開いた。碇シンジは前へ進んだ。彼自身の意思で。

そして、シンエヴァのクライマックスでは、碇ゲンドウの手による補完計画、アディショナルインパクトが発動する。ヴィレの奮戦もあと一歩のところで至らず、シンジが父親を止める唯一の希望となった。

ここまで来ると僕とシンジの隔たりは決定的になってしまった。EoEでシンジとともに体験したように、たとえ他者が怖くても、引き起こされた補完計画を拒絶する、それでも傷つく世界を選ぶ。そこまでは同じ心持ちだった。

けれど、ヴィレや世界、友人や家族の命運を全て背負って、補完計画を止めに向かう。それは非常に重みのある行動で、強くなければ選べない選択肢であると感じた。

主人公として立派な選択だと思う。そんなシンジがとても頼もしく、大好きだと思う。

けれど、もうシンジは僕の投影ではなくなってしまった。

さらに、旧劇場版と異なり、補完計画の渦中の精神世界で、それまでの人生やトラウマを逡巡する主体はシンジではなくなった。自らの心を吐露するのは、すべてを引き起こしたゲンドウであり、共に戦ってきたアスカであり、助けようとした綾波であり、そして、前作でシンジの心を救って見せたカヲルだった。

シンジは精神世界の中で彼らの心を見届け、彼らを救って見せた、そう感じた。EoEで、自らの葛藤を爆発させて壊れそうになるシンジではなかった。

彼はすでに第三村で人間性を回復したのみならず、他者を抱擁するまでに成長したのではないだろうか。

シンジはセカイの渦中にある悩めるティーンエイジャーではなく、人々の心を救うヒーローになっていたように見えた。

映画を見終わった時、僕にとってシンジはヒーローだった。素晴らしい主人公で、シンジの事が好きになったと思う。

けれど、僕ではなくなった。

それをとても寂しく思う。

 

 

 

成長したシンジが僕ではなくなったのか、成長しない僕がシンジでなくなったのか。

後者だとして、僕が作中に現れているのは、それは悩み続けるゲンドウの姿としてではないか。

いつしか僕は、年老いて尚もどこか遠くに救いを求め続ける、奇妙な人物になってしまっていたのか。

飽くまで作中の人物に自分を当てはめた見方をしてしまうなあ、と思いつつも、僕はそう考えたりもした。

僕はまだ、エヴァンゲリオンにさよならできそうにない。